第 95 話
     引っ越し
 

 ああ、ついに帰ってきた、帰ってきたんだ、帰ってきたんだ!

 ブリーカー・ストリートをスキップしながら、私はシティの風景に感動し ていた。あのニュージャージーのど田舎を引き払って、再びついにマンハッ タンに帰ってきたのです。ああ、人が歩いている。ああ、チャリが走ってい る。ああ、ホームレスのおやじも健全だ。角にはデリもある。銀行だってす ぐそこだ。わはははは。

 思えばしんどい田舎暮らしでありました。まわりにはみごとに何もない。 あるのはただっ広い公園と無人の鉄道の駅だけだった。夜中どころか昼間に 何か食べたくなっても、レストランもなければデリもない。車がなければ何 一つ動きの取れない暮らしでした。

 さてそういうわけで、このところまた引っ越しでてんてこまいしていた。 引っ越しのたびにものを捨てている。一体どこに隠れておったのか、とたま げるほどの量の物がいろんなところからわらわらと出てくる。気の小さい私 のことだから、引っ越しでもなければなかなか物が捨てれないでいる。いつ かまた使うんじゃないか、とあれこれ無理に理由をつけて引き出しの奥にし まっておいたりする。だからたまに引っ越しするってのは無用の物たちを捨 てられるいいチャンスなのです。

 いらないものだけでなく、ちょっと必要くらいなら捨ててしまおう、むち ゃ必要なものだけ厳選して残していこう、感傷に浸って取っておく余裕はな い、と厳しく自分に言い聞かせた。

 そのかいあってか、今回は相当肝を据えてかなりの量の物たちを捨てたの でした。大物はソファから小物はらくがき帳まで、気合いを入れてどんどん 捨てた。洋服や帽子、靴から始まって、お鍋に食器、色あせたタオル類、カ ーペット…。これに乗ってくるとどんどん調子が出てきて、そのうち捨てる 快感にはまってきます。もっと他に捨てる物はないか、と捨てる物を捜すま でになる。

 お母さんなんぞがこれを見たら、私はオシリをペンペンされるに違いない。 「もったいない」「バチがあたる」と、うちのお母さんは貰い物の箱入り饅 頭の包装紙から結んである紐まで、それはそれは丁寧にたたんで、紐はきち んと結わえて、すべて大切に取っておいたものです。ソックスの穴すらもチ クチクとお裁縫して繕ってくれる人です。穴があいたからポイッと捨ててい る私を見たら何と思うことか。ごめんね、お母さん。親不孝者の私を許して ください。

 ともかくそういうわけで引っ越しは無事完了し、元の古巣に戻ってきまし た。しかしあれだけ捨てたのに、まだまだ物がいっぱいでスペースがない。 ついに一番お気に入りのテーブルを捨てるしかなくなった。これだけはお別 れしたくないと頑張っていたんだけど、これが相当のスペースを占拠してい ることもわかっていた。

 「ごめんね、ごめんね」と心の中で謝りながら、このテーブルをアパート の前の道ばたに運んで行って、いい人に拾われることを祈りながら、小走り に部屋に駆け戻った。そして、30分後。気になって様子を見に行ったら、 若い男の子が二人、両腕で抱えてみたり、手のひらを広げてサイズを計った りしてテーブルを値踏みしている。私はどきどきしながら様子を見ていた。 だが彼らは自分らのアパートには入らないとでも判断したのか、何度も振り 返りながらもあきらめて去っていった。ホッと胸をなでおろす私でした。

 そしてさらに15分後。また気になって様子を見に行ったら、今度はキャ リアウーマンタイプの女性が真剣な顔つきでテーブルをなでまわしている。 しゃがみこんでしっかり裏側までチェックしている。どうしようどうしよう、 と私はまた焦って見ていました。

 だがその女性も結局運べないと思ったのか、残念そうに去って行った。そ こまで見てしまった私は、ああ、やっぱりできない、私にはできない、こい つを捨てるなんてこと、なんでしようとしたのだ、バカバカバカ。と自分の 頭を殴り、テーブルをまたズルズルとアパートに引き入れたのでした。

 引っ越しってこういう駆け引きがつきものです。よく道ばたに、まだ使え るすごくいい机とかドレッサーが捨てられています。これって捨てた人たち もあれこれ悩み苦しんだ挙げ句、引っ越し先にはおまえは連れていけないの だよ、ごめんね、と泣く泣く決心したりしたに違いないのです。

 それにつけてもしばらくはもう引っ越しはしたくないなあ、と、例の取り 戻したテーブルの上でこれをタイプしているのでした。

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