第 84 話
  さよなら、ノリコ
 

  さよなら続きのこの頃である。この間カコちゃんが去ってしまったと思ったら、今度はノリコであります。これは、相当こたえた。うちから歩いて3分、隣りのブロックに住んでいた彼女とは、まさしくご近所つきあいをしていたから。

  このニューヨークで生きていくために、たとえば友達なんてものは実は必要ない。仕事やお金やビザとかの方がもちろん必須であります。でも、このニューヨークでほんとうにわかりあえる友達を得られたら、間違いなくそれはラッキーであります。このニューヨークで、というところがミソなわけで、この街はやはりキツい。ロンリーさがハンパじゃない。

  日本では私と似たようなこと、つまり広告業界に身をおいていたノリコは、ムービーのプロデューサーをやりたいという夢を持ってここに移ってきた。最初の広告代理店でいきなしファイアーされ、次に入った小さなプロダクションでも同じ目に遭い、相当キツい精神状態だったと思う。いろんな会社にアプライし続けていたけど、どこもうまくいかなかった。ひとつはビザのことがあったようだ。グリーンカードがないとアメリカの会社はまず雇ってくれない。

  仕事のことだけでなく、ボーイフレンドとの別れとか、コンピュータがぶっこわれたりとか、いろんなことが次から次へと災難のように降りかかり、彼女は毎晩うちに電話をしてきては、そのしんどい精神状態を私に話した。気がつくともう外が明るくなっていることもよくあったなあ。私たちの話は尽きることがなかった。また逆に、私が少しつきあっていた男とうまくいかなくなって混乱していた時など、夜中なのにアパートまで来てくれた。「ユーコさんは何も悪いことしていないんだからね。りりしくしていていいんだよ」と彼女は私の手をしっかり握っていてくれた。

  気がついたらこの4年間、私らは女子高生みたいにくっつき合って、きゃあきゃあとよくしゃべくったものです。二人ともヒマだけはあったから、本当によく会い、よく考え、よく話しこんでいました。午後から近所の公民館に一緒に泳ぎに行き、そのあと遅いランチを取る。時にはそのまま公園で話し込んでしまって、お腹すいたねえ、と夕食まで一緒に取る、ということすらあったんだから。まったくぜいたくしていたものです。

  近くの「ブルーノ・ベーカリー」は私たちのたまり場でした。ここでいつもカノーリというイタリアンデザートとレギュラーコーヒーをオーダーする。そのうちブルーノで働く人たちとも顔見知りになってしまい、私たちが行くと、メニューにないチョコレートカノーリをこっそり作って出してくれたりしたものです。こんなささやかなことが私たちを暖かい気持ちにしてくれた。

  そう、お恥ずかしい話ですが、私たちは自分のアパートから半径いくばくか、みたいな狭い世界で満足して十分楽しんでいたんだよね。そう、このトシになってこのニューヨークで、もう一回青春をやれたってわけです。金はないけど、ヒマと、同じくヒマな友達だけはいる、あの青春時代。あれを私たちはこのダウンタウンの片隅で、くすくす笑いながらやっていたのでした。

  さて、結局彼女を日本に去らせる決心をさせたのは、アパートの水漏れでした。ある日アパートに帰った彼女は、部屋が水浸しになっているのを見つけた。上の階からぼたぼた落ちてくる水漏れは数日続き、ついにはアパートの天井を破壊し大穴をあけた。彼女はもうオーナーに文句言いに行く気力も失せて、その場にへたりこみ、「もう、いい。もう、やめた」とニューヨークを去ることにしたのでした。

  彼女の去る前に、最後に一緒にブルーノに行った。このカフェで、何度つらい話やしあわせな話を語り合っただろう。「実は私、日本に帰らなければいけなくなっちゃったんだよ」と伝える彼女に、いつもこっそりチョコカノーリを出してくれていたイタリアンのおにーちゃんが、みるみるうちに目に涙を浮かべ、「行くな、行くなよお。ノォ、ノォ、ノォー」と首を横に振った。その強いイタリアンアクセントの英語が、とてもせつなくて、悲しかった。

  ついに彼女が去ってしまう前日、彼女のがらんとしたアパートでさよならパーティーを持った。たくさんの友達たちが集まり、みんな「どうせまたすぐ帰って来るに決まっているもんね、あはは」と、さよならなんて冗談だよな、と信じないふりをする。

  私とノリコはお互いの肩に顔を埋めて、嗚咽してしまった。残されるもののつらい気持ちは、カムチンが去って以来である。「行くな、行くなよお。ノォ、ノォ、ノォー」。思わず、あのブルーノのおにーちゃんと同じセリフが口から出ていた。ここに住んでいる限り、誰だってこのセリフを何度か口にしてしまったに違いない。来る者の数だけ去る者がいる都市なんだから。

  さよなら、ノリコ。忘れないでね、ここはあなたの「第二の青春のふるさと」なんだからね。  

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