第 60 話
            痴漢

 みなさん、痴漢にあったこと、ありますか?日本にいる頃ならきっと一度や二度、いや十度くらいは経験したことがあるでしょ。満員電車の中でわらわらといろんな方向から何本も手が出てきましたとか、道を歩いていたら前から来た男にすれ違いざまにおっぱいをむにむにされましたとか、あったでしょ。この私ですら何度か気色の悪い目にあったことがあるんだから。

 先日アッパー・ウエストサイドに「Eyes wide shut」を見に行った。そう、トム・クルーズとニコル・キッドマンの共演。そしてあのキューブリックの最後の作品である。これは見逃せない。ハードなセックスシーンがなんとかかんとか、という前宣伝でしたよね。

 さてこの日も満員御礼で、館内はひどく混み合っていました。私と友だちの前に、5人のハイスクールのキャピキャピギャルたちが並んで座っていました。みんなアメリカ人にしては幼い感じで、みんなでつるんでママの目を盗んで、このハードコアなセックスムービーとやらを見に来ました、という感じで、あどけなくてかわいい。

 さて映画が始まって15分くらいした頃、私の斜め前に座っていたそのハイスクールの女の子の1人が「何してるんですか!」と叫んだ。「触んないでください!」ときつい声で抗議している。彼女の隣りに座っていた40がらみの男が困ったように、「オーケィー、オーケィー、シィィィ。」と懸命にとりなしている。回りからも「静かにしろ」「シィィィー!」の声が上がってきた。しかし、女の子は負けない。「何がオーケイですか!オーケイじゃないわよ!あなた今触ったじゃないの!何やってんですか!」とどんどん声を大きくしていく。スクリーンではトム・クルーズがキッドマンとからんでいる。だが私はもうスクリーンより、こっちの成りゆきの方がおもしろくなって、耳をダンボにして注意を集中した。

 さてそのうちに、「どうしたの?どうしたの?」と彼女のお友達たちが騒ぎ始めたぞ。「このスケベオヤジがあたしの太股に触ってきたのよ!」「えーっ!」「もぞもぞこうやって(ともぞもぞアクションをやる彼女)手を動かしてきたんだから!」「きゃーっ!」「やらしー!」とピーチクパチク黄色い声で叫んでは、その痴漢おじさんの顔をのぞきこんでいる。周りの人たちも事の成りゆきに気がついてきて、彼の方に視線を向け始めた。わざわざくるりと振り向いて、犯人の顔を見ようとしている人もいる。「こいつ何か変なこと、女の子にしたみたいだよ。」とみなさんにお知らせしている人もいる。もはや映画どころではなくなってきた。

 痴漢おじさんは顔を手で隠し、咳払いなどしてごまかしていたが、ついにいたたまれなくなって、こそこそ逃げるように出ていきました。となりに座った女の子の隣りに、よもやこんなにずらりとお友達が並んでいるなんて想像もしなかったんだろう。こんなにつるんで騒ぎ立てられては、ひとたまりもないですね。

 珍しいものを見てしまった。と私は新鮮な思いにとらわれていました。日本の電車の中や暗い夜道ではよくある光景だが、私はたとえばニューヨークの地下鉄の中で、痴漢行為を見たことは今まで一度もない。ラッシュアワーの時ですら、どこからも手の一本も出てきたことはない。夜道でおっぱいに触られた話も聞いたことがない。痴漢された女の子ももちろんいるかもしれないが、少なくとも日本の比ではないでしょう。

 ゆえに、街中や人ごみの中での痴漢はアメリカには存在しない、とうかつにも思いこんでいました。もしどうしてもやりたかったら、痴漢なんていうふん切りの悪いことはしない。やるならきっぱりレイプする!と思っていました。だって人の目のある中で痴漢行為なんてやっちゃったら、これはもう、すぐ訴えられるに決まっている。泣き寝入りするはずないわな、自立したアメリカ人のオンナが。この映画館の中でもそうだったけれど、当然まわりも黙っちゃいません。見て見ぬふりなんてとんでもない。騒ぎ立て、ののしり続けます。

 このような悪状況の中で、わかっちゃいるけど痴漢してしまったこのおじさんは、なかなか勇気のある、見上げた根性の持ち主です。きっとその夜、自分のやってしまった愚かな行為にすっかり落ち込んで、エッチビデオでもレンタルして帰ったことでしょう。

 ところで、この痴漢おじさん、実は日本人でした。というオチだったらまとまりがいいんだけどね。あ、ごめん、日本人の痴漢のみなさん。

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