第 56 話
            前略、日本より

前略

皆様、いかがお過ごしですか?私は一年半年ぶりにお忍びで日本に帰ってきています。(わはは、何様だお前は。)というわけで、ここはやはり時候のご挨拶から始めることに致します。

さて皆さん、日本がいかに蒸し暑い国であったか、まだ覚えていらっしゃいますか。そう、冷蔵庫に入れ忘れたおなべのフタを開けた途端、中にモワーッとかびが生息していてショックを受けたり、布団や押し入れにきのこがもわもわ生えていてうろたえたりする国。それが日本でありました。

 まず関西空港に降り立ったとたん、さっと空気が変わりましたね。すっかり忘れていた、あのアジアのじっとりうっとおしい湿気。そういえば梅雨なんて言葉、皆さんはすっかり忘れてしまわれたかもしれませんね。ちょっと気を許すと、あっという間に脇の下はネトネト状態。額は汗と油でテカテカ。この歳で顔にブツブツとにきび(吹き出物とはあえて言わない)までできちゃったじゃないの。ああ、このベトベト感。これこそまさしく日本の初夏であります。

 ところで、一日千秋の思い、なんて言葉がありますが、私は東京に入って以来、一日一週間の思い、で時間が過うまいぎていっております。つまり、ニューヨークで一週間かけてやっていたことを、日本では一日でこなしているのですよ。例えば、ニューヨークだったら、さあ今日はお洗濯日にしよう、と決めるとその日はお洗濯が大仕事になる。それ以外のことまでとても手が回らない。お洗濯が終る頃にはその日の予定をやり遂げた満足感で満たされているのです。そう、ニューヨークライフでは、やれることは一日にひとつ。これが限界であります。

 ところが日本に帰って以来、私はいっぱしの「多忙な人」化しておりまして、スケジュール帳は、人とお茶する予定とか、銀行に行く予定とか、お買い物にいく予定とか、うまいものをお呼ばれする予定とか、朝から夜までハードスケジュールでびっしり。おまけにその隙間をぬって、街角で電話ボックスを見つけると友人知人にご挨拶の電話を入れる。とまあ、芸能人ばりに忙しくしております。

 さて今日もこの後、「無印良品」に軽石を買いに行く予定です。これはニューヨークのゲイのお友達から一任された、重要な任務であります。今回も運び屋をやっている気のいい私。コンピュータ関係ものから始まって、お菓子や雑誌、そしてなぜか缶ピーまで、頼まれものだけでも7人分もあります。

 すでに皆さんもご存知のことでしょうが、日本で手に入らないものはないわけで、しかも何でもかんでもかわいくてコンパクトでセンスがいい。不況のせいか、激安ショップが相変わらずの人気でして、小物からお洋服まで、今やニューヨークなんかよりずっと安いのです。日本に帰ると金銭感覚がすっかり麻痺してしまい、買い物につっ走ってしまう悲しい性。家賃についてはまあ、あとで考えよう、と割り切りも早くなります。

 もちろんつらいこともいろいろありました。でかいボストンバッグを吊り棚に乗せれなくて四苦八苦していても、まわりの男どもは誰も手を貸してくれない。後ろに続く私のためにドアを押さえててくれる奴なんていやしない。道端やプラットフォームのゲロは相変わらずだし、最終電車じゃ窒息寸前にまで追いつめられるし、あああ、せちがらい世の中じゃ。

 ここまでお読みになったら、勘の鋭い皆さんのことだから、すでに何か物足りなさを感じてきたことでしょう。そうなのです。何にもおもろい目にも合わず、話のネタがないのです。ただ忙しく目まぐるしく時間が流れて行く今日このごろ。日本はまだまだおもしろさにおいては後進国ということでしょうか。

 では、次回はまたニューヨークからお便りします。

 お元気で。

P. S.  あー。ぼちぼちあの油がべとべとのでっかいピザが食いたくなってきたなあ。

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