第 33 話
            親知らず

 聞いて、聞いてー。先日親知らずを抜いたんだよ。やれやれ、ガキじゃあるまいし、たかが親知らずの1本や2本抜いたくらいでガタガタ騒ぐんじゃねえやい、とか言われそうだけど、親知らずを甘くみてはいけません。こっちではこんなことさえも「手術」になるんだから。

 「じゃ、ポンッと親知らずでも抜きますか。」と歯医者さんがのんびり言ってくれたなら、私も「そうですね。じゃ、ここはひとつ、ポンッと抜いてください。」とでも言えるよ。「では、この書類をあなたの保険会社に郵送し、認可されましたら手術を行う別の病院に行ってもらいます。手術は1カ月後になります。」てな調子で説明されてしまったんだから、私は後ずさりしてしまった。なぜ、たかが親知らずに1カ月も待つのか?なぜ、この歯医者では抜いてくれないのか?なぜなんだ?私の親知らずに何か不審な点が発覚したとでも。考えなくてもいいようなことを真剣に考え、疲れはて、ついに黙って流れに従うことにした。

 さて「手術」の当日。この手術で何が起こっても文句いいません用紙にサインさせられる。これが緊張を一気に高めてくれる。こんな用紙、日本で親知らずを抜いたときにはなかったぞ。サインって何だ。私は口答えひとつできないってわけか。と次第に、もはやこれまでか気分になるのでした。

 まな板のなんとか、って鮒だっけ、鯉だっけ、鮭だっけ、…麻酔が効いてきて頭が鈍くなってきた。「うふふ、キミ、緊張してるね。」若いアメリカ人の執刀医は、すでに私に抵抗する気力もないと知るや、メスで歯茎を切り刻み、出てきた親知らずをドリルでガリガリ削り、ハンマーでガンガン叩き割り、ペンチでグリグリ引っこ抜いた。麻酔のせいで、このすべてのプロセスをひと事のように下目遣いに凝視する私でありました。そして手術は無事終了した。ころん、と転がる血塗れの親知らず。スティーブン・キングの世界である。

 その夜、痛み止めのスーパータイナロールがむちゃくちゃ効いて、すっかり脳味噌がどろどろになり、そのうち、お水を飲むと口の端からよだれ状態でたれるのを、うふうふと笑ってやり過ごすところまで気分はハイになるのでした。

 さて翌朝、鏡を覗いた私はあっとたまげた。そこには、「こぶとりじいさん」が出現していた。左のほっぺたが約3倍にぷうとふくれあがり、ぱんぱんになっている。あまりのみごとさに、私は我を忘れ、しばらくじーっとその顔を観察していた。

 右の横顔で「ハロー」と言い、今度はくるりと向きを変えてぷうと膨らんだ顔で宍戸錠口調で(みなさん、この人知っていますか?)「ハロー」という、一人二役遊びなどしてみる。「あはは、おもしろいじゃん。」とひとりで気に入る。そうでもしないとやり切れない。

 そういうわけで、私はしばらく世間から身を隠して生きるつもりであった。こんな顔で表に出るなんて、さすがに一生の恥である。ところがこんな時に限って、抜き差しならない用事というものができるわけで、しかたがないので、少し不気味だが、髪の毛で顔半分を隠して街に出た。

 私は忘れない。うつむいて足早に歩いていたその時である。突然の風が私の髪の毛をばぁーっとひる返し、こぶとりじいさんが出現したのだ。「What 's the matter with your face!?」ああ、ホームレスのおやじがはっきり驚いた。(断っておきます。残念ながらこれは決して作り話ではありません。)そりゃそうよね。かわい子ちゃんが歩いてる、と思った途端、こぶとりじいさんに変化したんだものね。私はあわてて頬を押さえ、たたたたっと、その場から逃げ去った。もう放っておいてくれよー!そっとしておいてくれよー!と心の中で泣き叫びながら。

 さて完全に元の状態に戻るまでに、結局1週間かかりました。ひっそりと部屋に引きこもった1週間は長かった。でもこれですべて終わったのさ。親知らずからすっかり解放された私はその自由を満喫しています。で、あなたはあと何本、親知らずが残っていますか?うふふ。


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